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妙光寺御池
( みょうこうじおいけ )
国道8号線から少し入ったところに妙光寺山があり、その裾に大きな池があります。この池は自然にできたものではなく、今から約300年以上も前に、妙光寺村の人たちによって造られた人工池です。昭和の初めころまでは、「男池」「女池」と二つに分かれていましたが、1960年(昭和34年)の改修工事で、真ん中の参道が取り除かれ、現在の大きな池になりました。この御池は、おいしいお米を収穫するためになくてはならない水を確保するために造られたものです。 雨が降ると、水は山水となり、砂防ダム、小さな川、暗渠、パイプを通ってこの御池に流れ込みます。そして池の樋から出た水は用水路を通って、広い田や畑へと流れてきます。また、オーバーフローの仕組みが取り入れられていることによって、雨がたくさん降って池の水が増え、あふれそうな時は、出口から自然と田や畑へ流れるようになっています。 (参照:野洲のミニ百科事典)
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東光寺 出世不動明王
( とうこうじ しゅっせふどうみょうおう )
三上山のふもとにある「東光寺」には、弘法大師空海が巨石に刻んだ「出世不動明尊」が鎮座しています。 寺伝ではこの巨石に、西暦815年、弘法大使空海が42歳の時にこの山で修業をし、その厄除として不動明王を刻んで祀ったのがはじまりとされています。 巨石を囲むようにお地蔵様も祀られ、他にも役の行者様、大日如来様、八大龍王様など、たくさんの神様が祀られています。 周辺の山々はハイキングコースにもなっていおり、お天気の良い日には多くの登山者がお寺を通っていかれます。
兵主祭
( ひょうずまつり )
毎年5月5日に兵主大社で行われる兵主祭。 午前中に神社で神事が斎行され、午後には各氏子から大小の神輿や太鼓が神社の参道に集まり、クライマックスの神輿渡りが行われます。 一の鳥居から出発して朱の鳥居をくぐるまでに太鼓橋があり、この間約300mの距離を大太鼓も交えて、賑やかに大行列を行います。 女性だけの神輿、「あやめ神輿」「あやめ太鼓」が祭りに華をそえます。
兵主大社 花手水
( ひょうずたいしゃ はなてみず )
新型ウイルス感染拡大防止のため、参拝前のお清めを控えた神社寺院が増えたことから全国的に広まった花手水。 野洲市内の花屋さん「花のオカダ」さんの奉納により、兵主大社の手水舎が季節の花々で美しく飾られ、 参拝者の目を楽しませてくれています。
八ケ崎神事
( やつがさきしんじ )
兵主大社は、祭神を八千矛神とし、養老2年(718)に創建されたと伝えられています。 流麗な朱塗りの桜問(室町時代・県指定文化財)が美しく、数多くの社宝や文化財を有しています。 平安時代後期に造られた池泉回遊式の庭園(国指定名所)は、紅葉の名所として知られています。 八ヶ崎神事は、毎年12月上旬に行われ、宮司が湖中に入って御神体を清め、神を向かえる神事です。 白蛇の姿をした兵主神が大亀に背に乗って琵琶湖を渡り、鹿の群れに守護され、現在の社地にたどり着いたという伝説にちなむものです。 平成30年には文化庁が認定する日本遺産に”祈りと暮らしの水遺産”の構成文化財として登録されました。
野洲川
( やすがわ )
鈴鹿山脈の御在所山(1210m)に源を発して西流し、全長61kmの河川で、下流部は守山市、野洲市一帯に、日本最大級といわれる湖成三角州の広大な沖積平野を形成して琵琶湖に注いでいます。 また、その昔、河口部が脈流により八つの洲をなしていたので八洲川と呼ばれ、これが後に野洲川となったとも言われています。 上流部は、風化しやすい花崗岩や軟弱な古琵琶湖層群の地層からなり、保水性が悪く、古来から豪雨のたびに洪水を繰り返し荒れた川で「近江太郎」と呼ばれていました。 (参照:野洲のミニ百科事典)
お田植まつり
( おたうえまつり )
昭和3年の昭和天皇即位式に続いて行われる大嘗祭に供える米を作る田(悠紀斎田・ゆきさいでん)に野洲郡三上村(現在の野洲市三上)」の大田主粂川春治氏が選ばれました。お田植まつりは、これを記念して毎年5月の第4日曜日に行われるもので、昔ながらのすげ笠(かさ)、緋(ひ)ばかま、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)姿で数え歌や太鼓に合わせて、踊りと苗植えを奉仕します。
銅鐸博物館・弥生の森歴史公園
( どうたくはくぶつかん・やよいのもりれきしこうえん )
日本古代史の謎とされる「銅鐸」のルーツを探り、その真相解明にせまった博物館です。館内は、銅鐸の誕生から移り変わりまでについて興味深く説明しています。 また、隣接する「弥生の森歴史公園」には、竪穴住居や高床倉庫、赤米を栽培する水田などが復元され、つかの間のタイムスリップを感じることができます。